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2006年2月の日記
 
2006年2月1日(水) 4:01

禅問答

最近、こんな話を致しました。
「断食がしたい。何か考えが変わるでしょうか?」
という問いと言いましょうか、其れこそ禅問答を頂戴した訳です。
ふざけて私を「猊下」などと呼んで下さる方はいらっしゃいますが、私は何処ぞの坊主でも御座いませんので、断食の真意を心得ている訳でも御座いませんでしたが、丁度この度病の床に臥し
、満足な食事を得られなかった経験が御座いましたので其処で得た感想、考えを徒然とお話致しました。
先日もこの日記で書きましたが、望まずして食事が取れないというストイックな(笑)状況下に置かれ、そして其れが文字通り解禁された時の食事の美味さったら格別なもので。
強化人間の如く、味覚が数倍にブーストされ、ほんの僅かな味にさえ敏感に反応出来る悦びったらこの上ない。
海老の「甘み」なんて意識した事ありましたか!?みたいな(甘海老じゃなくてよ)。
で、つまるところ、何が言いたかったかと申しますと、禁欲により、本来の欲を知る事。
本来、日常の中に埋れがちな真の価値を知る事。
其れを知る事で、同じ生活も、より幸せに感じられる訳で。
私は病の最中、「最悪の場合、もう美味いものは喰えないんじゃないか?」と懸念を通り越した覚悟を致しました。
しかし、結果的には、今では又グルメ何でもOKの生活。
其処に至って今迄の自分と少し違ったのは、此処で安堵の溜息を漏らすだけではなく、其の覚悟を通ってきた分の悦びを噛み締めて食事をとれている事でしょうか。
こうした徒然とした話の結びとして申し上げたのは、「心を変えたくて断食をする」ならば、本当に食事のとれない状況に自らを置かねば、真に迫った価値を見出し難いのではないか?という事。
目の前に、いつでも食べられるチョコを置いて、其れを我慢するだけでは断食の効果も薄いのでは?と。
後で食べられる、って判ってて我慢している訳ですから、其処に甘えが出てしまうと思うんですよね。
此ればかりは、飽食を湛えた日本で答えを得るって方が難しい問題。
運動の後の麦酒の如く、我慢の後の食事は美味しいかも知れませんが、もう食べられないかも知れないという危機感を持って、一期一会の気持ちで目の前の食材と相対する気持ちまでは生まれますまい。
いや、でもですね、我慢するってだけでも偉いと思うんですよ、実際。
喰えなくて喰わないより、喰えるのに喰わない方が難しいですから(笑)。
欲しいものは力尽くで奪ってやるという輩も多い世の中、そういう意味では、禅問答の答えはハッキリしないままでも、断食=我慢大会をやってみる、という心意気は有意義だと思ったりも致しました。



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