江戸吉原の花魁「尚叡太夫」でありんす



何故か扮装
それにしても私は至って男性顔。
花魁と言うか、女性の持つあの妖艶さは出せるものではない。
いやぁ、そんな事よりこの衣装、重い・暑い・ヤバい・間違いない!

江戸の吉原については、学生時代に歴史と政治学的見地から学んだ覚えがあるので馴染みが深いものではありますが、以下はその際の予備知識的なものですので、間違った認識がありましたら指摘頂けると幸いです。

吉原誕生の時代背景
「娘一人に婿八人」と言われたように、当時の江戸では女性に対して男性の比率が異常に高かった。
これは、生物学的な少雌多雄の比に加え、大名の参勤交代制度で、江戸には諸国の武士達が妻子を郷里に残して集まっていたというものにも起因する現象であったと考えられる。
そうなると自然の摂理で娼館が乱立する事になるのだが、江戸でも京や大坂などに習い、公認の遊郭として娼館は吉原一点に集められた。
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吉原での遊び
吉原と聞くと現代の風俗街のイメージが強いと思うが、当時の吉原の遊びは金で女性を買うというようなストレートなものではなかったようだ。
壁で囲まれた吉原の中では女性上位の世界。
大名や豪商達が、途方もない額を何度も積んで遊女と会う事が出来、そして、遊女に気に入られなくては客人はその後会う事が出来なくなる。
床を共にするのも駆け引きの末であり、生涯処女を通した花魁も存在する。
つまり、此処では「駆け引き」が遊びなのであろう。
現代のお水とも風俗ともつかない、粋な遊びである。
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太夫(たゆう)、花魁(おいらん)とは?
遊女にも階級があり、当然遊ぶ値段(揚代)にも格差があった。
太夫とは吉原でも初期の頃の格付けである。
当時は「太夫」「格子」「端」の三階級制から始まり、時代の流れと共に階級も変化を繰り返していった結果、中期以降は太夫と呼ばれる格付けは姿を消した。
花魁とは厳密な格付けではなく、大まかなもので、言わば上級の遊女全般を指した呼び名である。
「おいらの太夫」や「おいらんとこの姉さん」などと呼ばれいたのが変化したものが「おいらん」の語源だと言われる。
花魁と呼ばれる遊女になると、接客用の部屋の他に、自らの部屋も与えられ、雇い主からも「〜様」付けで呼ばれ大事にされた。
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華の花魁
花魁と言えば、やはりこの華やかな衣装が印象的である。
帯は前後逆に締め、頭には針刺しの如く簪を無数に差し、道中(ストリートパフォーマンス)の際は丈20cmはあろう三枚歯の高下駄を履いた異形ともいうべきその姿は、言わば自分達が自由である事、特別である事の象徴であり、幕府権力には従わないと言う姿勢の現れでもある。
現に、江戸時代の男性は遊女を上の地位として、そして高嶺の花として見ており、遊女達は街を行き交う普通の女性を「地女」と呼んで馬鹿にしていたという。
それだけの振る舞いを許される花魁という称号は、美貌の他に芸、知識、駆け引きも達者である証であり、幼少の頃より周囲からの厳しい虐め、折檻という影の部分に耐え抜いた者にのみ与えられた特権でもあろう。
この影は光に対し随分と色濃いものであり、下積み時代の劣悪な環境に因り、当時の遊女の平均寿命は20代半ばそこそこだったとも言われる。
花魁の華やかさというものは、そのような哀しい影を背負った上で成り立っていたのである。
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