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2007年12月の日記
 
2007年12月17日(月) 21:59

モリノス

帰宅前に、無くなりそうだった洗顔料などを購入しに、おなじみのS化粧品に行きました。いつも担当してくださる店員さん達は開口一番「ああよかった、お元気になられたようで!」と言われました。私は何故?と思い色々と聞いた所、先日来店した時は顔色が真っ白で実は心配していたとの事。さすが美容部員、お客さんの肌や顔色はチェックしている様子。私はしみじみと「どんなに手入れしていても健康でないと肌力は湧いてこないですよね〜、まだ本調子じゃないんだけど、顔色や肌が回復しつつあるんですね」と自覚できていない自分の回復を喜びました。来春発売のリフトアップクリームのサンプルをいただいたので帰宅後に半信半疑で試したら「!」血色がよくなり、キューっと全体的に上がりました。どんな成分が混入されているかわからないのですが、人から「お元気そう」と労われた事、クリームが肌にスーッと入り険がとれ顔つきが柔らかくなった事で、病終焉を実感しました。23日は666今年の集大成の四周年興行があります。先日の別冊興行では体に力がは
いらなくフワフワと参加しマイクもカミましたが、23日は腹がすわった状態で、興行にのぞめそうです。



2007年12月16日(日) 21:22

 モリノス

モリノス

クリスマスの仕様で飾られた横浜の街に来ています。ロマンチックな景色ですがバリバリウォーターフロントなので海風が痩せた体に染みます。て事で先日調達したウォームビズキット(股引、ジジシヤツ、腹巻き)を装着。これでどんだけ寒くても天下無敵なカンジでした。が、ウォームビズキットを購入した時に買った冬の新作パンツもはいたのですが、このボクサータイプのパンツ、ローライズすぎなのです。どんなにずりあげても腰骨の上以上はあがりません。さらに尻も全部は隠れないくらい股上が浅いのです。今時の若者はこんなはきにくい下着を身につけているのか!と感心しました。私的にはその尻も、ろくに隠れない下着をつけその上から股引をはいたり腹巻きをしたものの、なんだか、下腹も尻もスースーしてしまい、あったかいのか冷えてるのか、わけわかんないカンジになってしまいました。が寒さも忘れるほど横浜の街は活気に溢れ、よき気晴らしになりました。体調を落としバタバタと師走を迎えましたが、海面にユラユラと差す光線をまったりと見ていますと、気持
ちも冴え、ジワジワと鋭気が湧いてくるような気持ちでした。 そして夕暮れ時には海面はその歌のごとく「ブルーライト」に染まって行きました。つかの間の大きな贅沢でした。


2007年12月15日(土) 23:40

モリノス

「芝居談義」。日本舞踊を幼い頃よりたしなんでいる友人(日友)と、芝居の話になりました。彼女は私より年下なのですが、古い舞台とか往年の大女優の仕草とか台詞を見事に真似る事ができる才能の持ち主です。私は大尊敬していた杉村春子先生のとある舞台の場面を彼女に演じてくれろとリクエストしたら、間髪入れず日友は「自分で選んだ道ですもの・・・」と新劇かじった人間なら一度は聞いた事がある名ゼリフをまるで、杉村春子が乗り移ったように私の目の前で真似てみせるのです。私は「気味が悪いくらい似ている」と絶賛したら、彼女は幼児の頃から文学座の芝居を見せつづけられ、アタシにとっての、憧れはキャンディキャンディでも、コメットさん(大葉久美子バージョン古っ!)でもなく、杉村先生だったものと、やはり杉村的な声色と所作で言いました。杉村春子先生は演技というより「形」でみせた俳優だったと思います。決して美女でもなくお背も小柄でしたが、着物の着付け、指先、姿勢など杉村的動作で、少女から老婆まで演じぬいた怪物だったと思います。日
友の彼女の自慢は御本人とうどんを食べた事があるそうで、杉村先生が使った割り箸をこそっと失敬し、今でも持ってるとの事。ってそれって微妙なんだけどと言ったら、今でも日舞の舞台の楽屋には縮緬の布に割り箸くるんで鏡前においてあるとの事でした。それから昔の芝居、今はなき名優達の話で盛り上がり。気づくと私達さっきから昔はよかったとばかり言っているが、これって自分達が年取った証拠だよね〜と彼女は芝居かかったカンジで手首を返し手の甲を口にあて笑いました。日友あきらかに昔の芝居オタクだと判明そして私も、同じだと得心した次第です。そして幼き頃の私の初恋の女優は必殺仕事人における山田五十鈴先生でした。山田五十鈴に萌える少年期の私もどうかと思いました。



2007年12月14日(金) 22:47

モリノス

「モリノスカラオケ秘話」。帰宅しテレビをつけると、苦難を乗り越えたラブバラードを独特のハスキーボイスで人気をはくした歌手の特集をしていました。病を乗り越え素敵に年を重ねた歌手の顔を見ていたら、過去の自分を思い出しました。あれは私が俳優養成所の研究生になった時のこと。巷にはまだカラオケボックスが普及していず、飲食をかねてフロアにテーブルが並び、中央にステージとモニターがあり、テーブルについた客が店員に楽曲をリクエストすると各テーブルのお客は順番にステージに行き歌をうたうシステムでした。当時私は歌が嫌いというより苦手で、先輩とか同期の人達あるいは接待でテーブルについた時には、カラオケは絶対歌わず、歌えと言われてもかたくなに拒否したものです。ある日、同期で声楽の時間もトップでその歌唱力は誰もが認める友人と、接待で歌舞伎町のカラオケ店に行きました。バブル期のカラオケ屋は照明から音響までちよっとしたライブハウスと高級バーのような店でした。店の前には黒服が立っていました。私は歌がうまい友人と一緒で
したから、自分は歌わなくてもいいやと楽観していたのですが、接待の相手が私の声に興味を持ち何か歌えというので、いつものごとく「歌は下手です音もとれません」と拒否しようとしたら、連れの友人が「この曲なら大丈夫、音にあわさないで画面の下にでる文字を読むつもりでやってみなさい、ここでアンタが歌わないと、座が白ける、アタシ達は、望まれたらできないと言えない立場なんだよ」と脅かされ、私は巷で流行していた歌をステージで歌う事になりました。普段耳で聞いたメロディーを思い出し、画面にでる歌詞を読むごとく歌っていましたら、店内がシーンとなりました。私は私の歌が余りにもひどいのでどん引きされたと思ってしまったら、声は震えかすれていきました。すると客席から拍手がおきたのですが、私はてっきりバカにされた恥かいたと思い、歌が終わるまでひたすら声を張り上げ続けました。同期の友人は「いいじゃない!アンタ地声低いと思ってるでしょでもホントは高いのよ」と言われても、私はうまく歌えた実感がなく。やっぱり歌は苦手と思いつつ、
どうやら「壊れかけのREDELO」なら、なんとか歌えるらしいと、少しカラオケに免疫ができたのでした。それ以来、色々な歌を歌えるようになり、カラオケは嫌いでも得意になったかもと、色々と歌える曲を増やしていったのでした。本日その歌を歌った歌手をテレビで見て、「あーこの人のおかげでカラオケができるようになんたんだな〜」と思い、感謝とともに、昔の自分を思い出し、感慨に浸ったのでした。



2007年12月14日(金) 0:21

モリノス

私は密かに、あんま・マッサージ・指圧師の免許をもっているのですが、先日指圧の学校時代のクラスメイトのお父様が亡くなったと聞き、本日お通夜に行きました。そのクラスメイトと会うのも何年ぶりかというほど会っていませんでした。葬祭場に到着し、個人の遺影を飾る祭壇を見て「ガーン!」なんと、クラスメイトの家の宗派は神道だったのです。受付にて持参した数珠はおしまい下さいと指示を受け、私はシドロモドロになりました。神道の葬儀におけるお参りの仕方がサッパリわからないのです。いざ仏教でいう焼香的なものが始まりました。なんと一人ずつお榊を渡されお参りするのです。一旦野外に出て順番を待つ間、私は面の寒さに下腹が差し込み、嫌な予感がしました。前にお参りしている人もお榊を大鏡を中心におかれた祭壇でお参りに悪戦苦闘している様子です。私は腹痛を我慢しつつ神主様からお榊を受け取り、左右に遺族が座る祭壇を前に頭が真っ白になりました。緊張がマックスに達した時、私はお榊を手に、目で右から左へと目だけを移動させ遺族に頭を下げて
、震える手でお榊を時計まわりに回転させ二礼して、柏手ならね不祝儀における神道のお作法である手を叩かない「しのび手」というやりかたで手を叩かないで一礼し、最後にまた目だけ右から左に目だけを動かし、頭を深く下げてそのまま、お参りを済ませました。父を失った級友の事も、故人の事もお参りの仕方に気をとられて気持ちを込める事ができませんでした。あー無知は嫌だなとブルーになりましたが、施主であるクラスメイトは、様になっていたよと言われ、遺族の方からは「あなたの礼拝はたしなみのあるやり方ですね、もしや国○学院出身ですか」などと言われ、私のナンチャッテお参りは、好評だったようです。ホッとしました。通夜振る舞いの席では、指圧学校の級友の話になり、老人ホーム経営、独立開業、総合格闘技のレフリー、空手の道場経営、某有名ダンサーのトレーナーと活躍の話を聞けました。私は指圧の資格をもっていながら役に立つ仕事をしていないので、みんな夢を形に活躍してるなと、感心しました。葬儀の人寄せで時を超え再開した友人、活躍してい
る同級生に会いパワーをもらいました。そして私のナンチャッテお参りも失礼ではなかったのねセーフと安心しました。



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