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2006年10月の日記
 
2006年10月3日(火) 13:35

憑き物

セッションを経験されて、よくお寄せ頂くご感想の中には「憑き物が落ちたようだ」ですとか、京極堂を連想させるようなものもが少なくありませ
ん(笑)。
所謂憑きものというものは何なのか?…という部分に関して、京極氏の見解は実に明解です。
決して非科学的なものではないんですよね。
皆さんのご経験、記憶、動作、感覚、全ては皆さんの脳で知覚している事ですから、逆に言えば、神経を辿っても脳で拒絶した感覚は、受けていな
い事と同じ事。
視野に入っていても認識されなかった物体は「居ない」という事になる訳です。
そういった、極めて個人差のある限定された認識の上で起こった事が災いなのであって、それ故に、脳内でも出来事が増幅・変換されて記憶定着し
ていたりする訳です。
ですから、セッションを受けられた方の認識下の部分に潜む、変形を繰り返して、災いの大元の出来事も判らなくなってしまったような記憶=影に
対峙して頂き、退治する(笑)事がカタルシスともなる訳です。
未来だけを読むだけの「おみくじ」的な占いと比べ、過去の因果を掘り起こして未来への最良のスタンスを喚起するタロットの手法というものは、
そういった観点から考えると合理的な憑き物落としになる訳ですね。
 
こういった話もあります。
国が違えば墓も違う。
文化(宗派)が違えば儀式も違う。
なのに、何処に行っても弔い、祟りといった考えは共通して存在します。
つまりはですね、祟るような霊体が存在する場合、其れを弔おうという「気持ち」が大事な訳ですね。
儀式は、其処に対し、気持ちを曇りなく集中させるプロセスなんだと思います。
 
タロットも然り。
カードを相棒と信じ、定められた手順・形式を信じて動かす事で、カードが其れに応えて答えを導き出してくれます。
私は最初にカードに対しては信頼を寄せたものの、既存の手順・形式に疑問を持ってしまったので、こういった形式が通用しなくなってしまいまし
た。
なので、私はいちいちカードに込められたエネルギーを感じながら読むべきものを選ばなくてはならないという、面倒なステップを踏む破目になっ
てしまった訳です(>_<)




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